いじめを乗り越えて人生を幸せに生きるための方法

いじめ体験、その後遺症をどう乗り越えてきたか、人生を幸せに生き直すためのコツを紹介しています。

まとめ

私が自分の人生を通じていじめや差別を経験したのは、
自分自身に対する自己愛が失われた結果であったと思いました。

 

この世でいじめや差別を経験するには、
自分のことをとことん嫌いになり虐げる気持ちを持つと
そのような現実を体験できるということがわかりました。

 

それはつまり、反対に自分のことを愛し尽くそうという気持ちを持つと、
ラッキーなことが頻繁に起きたり、
幸せを感じられる現実を体験できるということでもありました。

 

すべて自分自身が何を信じるのか、選ぶのか、受け入れるのか、
許可するのかという決定によって、現実が変化するということがわかりました。

 

自分自身がこの目に見える現実を創造しているとは、
誰しも信じがたいとは思いますが、
それがすべての真実だったと気づきました。

 

神と同質のものが一人一人の魂にも宿っているため、
そのような現実を創造するという力も当然与えられていて、
すべての人がそれを無意識に使っているのだと思いました。

 

この事実に気づいて、その現実を創造する力を
ポジティブな方向に使うことができれば、
人生の逆転現象が起こせます。

 

ネガティブな体験を多く経験してきた人は、
それを一度ポジティブな方向に切り替えれば、
反対にものすごく多くの幸せを手にできる可能性があります。

 

なぜなら、同じ力をプラスに使うかマイナスに使うかの違いだけだからです。
潜在的に持っているエネルギーは大きいことには変わりはなく、
不幸のドン底を経験した人はかえって、
幸福の絶頂も体験できる可能性を秘めていると言えます。

 

実際、私は不幸のドン底にあった時は、
現実を創造する力を最大限自分を不幸にするために使い続けていました。

 

でも、それを幸せにする方向に使い始めた途端、
加速度的に状況が改善されていくということが起きました。

 

私はどんな時もこの世の体験はすべて自分自身によって生み出されているということを忘れないでいたいと思いました。

 

ふとした瞬間に、周囲の環境や他者、過去の経験(過去世も含む)、育ってきた境遇などのせいにしてしまいたくなることがありますが、それは「私は自分を幸せにしたくない」「私はこの現実を変えたくない」と意志表示をすることに繋がってしまうということにも気づきました。

 

何事も周囲に見える他者や現実のせいにせず、自分が起点となっているということに立ち戻って、状況を観察し意識的に行動を改めていくと、どんな状況においても必ず幸せへ繋がる道を見出すことができます。

 

私は自分の人生体験から、
誰もが自分自身を心から大事に思い、愛する気持ちを忘れなければ、
どんな状況にあっても自分の人生を幸せに生き直す力を持っているということを
心から信じています。

 

そのことを思い出させてくれた、気づかせてくれたことを思えば、
過去の辛かった出来事もキレイ事ではなく感謝できる気持ちになれました。

 

過去の経験は自分自身で招いてしまったことではあったけれど、
今はそのことを責めることなく、
「それも一つの経験として学びを得られて良かった」と思えるようになりました。

 

「神様は乗り越えられない苦しみを与えない」とよく言われますが、
私もその言葉を今は心から納得し受け入れられます。

 

生まれる前に自分がこの人生体験を選択して生まれてきていると知った時、
初めは信じられませんでしたが、実際、今になってみてすべてが腑に落ち、
自分は強い存在だったからそれを選んで生まれてきたということにも気づくことができました。

 

人生の幸不幸という落差や感情の振れ幅の大きさを体験するということは、感動を体験することにも繋がりました。

 

過去の経験があったからこそ、私は今をこのように生きられるようになっています。
当たり前の何気ないことが、いかに多くの人の愛や助けに支えられているのか、奇跡のような出来事であるのかということを身に染みて感じられます。

 

それは過去に辛い経験があったからこそ、当たり前のことがそうではない、とても恵まれていたということに気づけるようになったからでした。

 

人間万事塞翁が馬」という諺があるように、
何が自分にとって功を奏するのかわからないということも同時に思いました。

 

一見不幸と思えることも実は幸せに辿り着くための一つ道のり、通過点で、きっかけを与えてくれるチャンスであったのだと自分のこれまでの人生を振り返って思います。

 

人間はどんな時もより幸せであろう、幸せになろうと求めるようにプログラムされて生きているのだということも思いました。

 

神様は誰もが自分の持つ現実を創造する力に気づいて、
やがて幸福を存分に体験することを望んでいるのだという気がします。

 

突然ですが、本日を持ちまして記事の投稿をお休みさせていただきます。

 

思うように伝えたいことがまとまらず拙い文章ではありましたが、今の私が表現できる言葉で伝えられることを精一杯書いてみました。

 

また、記事を書くことで自分にさらなる癒しが起きたことも感じられました。
そして、自分の思いを伝えるという大切な経験の一つになりました。

 

本当の意味で過去と決別する、それを自分自身の肥やしとして昇華させるという意味もありました。

 

日々このブログ記事を読んで下さった読者の皆様には深く感謝いたします。
それがいつも心の励みとなり、何とかここまで書き続けることができました。

 

このブログが少しでも多くの人の心に何か気づきを生むきっかけとなり、
人生のお役に立てることを願ってやみません。

 

これまでありがとうございました。

心の中の愛と世界の愛は比例している

私は、朝目覚めた時、しばらくの間布団の中で考え事をしていることがあります。
数年前のある日、目が覚めるといろいろなメッセージが頭の中に残っていました。

 

その一つは、「あなたの心の中の愛と、見ている世界の愛は比例している」というようなメッセージでした。

 

私はその言葉が頭に残っているのを知り、昔いじめや差別にあっていた時のことを思い出しました。

 

あの当時の私は愛が足りなかったのかもしれないとふと思いました。


 
まず、この世でいじめられるためには、いじめる人を生み出さなくてはなりません。

 

さらに、いじめる人の姿、行動、性格は、私のこれまでの転生や先祖を含め、すべての繋がりある者の見た人間の姿や、イメージするために必要となる記憶をかき集めて生み出されたものなのだろうと思いました。

 

例を挙げるなら、いつかのテレビの中で登場したいじめっ子の姿を模していたり、映画、本といった物語にとどまらず、先祖や自分の過去世において、実際に出会ってきた意地の悪い人間の行動パターンをそっくりそのまま反映していたのかもしれないと思いました。

 

つまり、今生においていじめる人を初めて知ったわけではないと思いました。

 

それはきっと、いつかどこかで一度目にしていた人物と似ている、その時の記憶の再放送なのだろうと思いました。

 

そして、その記憶を保持しているという点で、私はいじめる人を含んでいる、いじめる人を生み出した張本人ということができるように思いました。


私はそうやって、自分の目に見える周囲の世界にその記憶を再び放送したという意味で、〝創造した〟ということになり、そういう世界しか創造できなかったという点では、私は愛のない人だったと言えるように思いました。

 

愛のない冷たい人にしか焦点を合わせられなかったし、そういう人たちのことを完全な悪だと決めつけ、罰したい、排除したいとさえ思っていたことに気づかされました。

 

それは、本当に愛のない狭いものの見方だったと今は思えます。

 

私は自分のコンプレックスを受け入れられず、
いじめられるという体験を自分で創造しておきながら、
一方でいじめる人の存在を否定していました。

 

誰かをいじめる人なんか生きている価値がない、
人を苦しめて喜んでいる人はいなくてもよい存在なんだと決めつけていました。

 

でも、私には自分の存在だけでなく、
他者の存在を否定できる権利など持ち合わせていないはずだと思いました。

 

一体その善悪の判断、絶対的な悪だと決めつけられる完全な正義とはどこにあるのだろうと思いました。

 

それはひどく個人的なものに由来しているように思いました。

 

例えば、いじめる人も私にとっては憎い存在であったけれど、
その人の母親にとってみれば愛する我が子なのだと思いました。

 

また、いじめる人の友達にとっては、
仲の良い友達、気の合う仲間として
大事にされているのかもしれないと思いました。

 

そうやって考えていくと、いじめる人は私にとっては嫌な存在、罰したい、復讐したいと思わせる存在であったけれど、別の人にとっては、何とも思わない人であったり、反対に愛されていたりするのだということを思いました。


この時、私はもしかして自分は相手に怒りや敵意を向ける口実が欲しかったのではないかと思いました。

 

いじめられるという立場に立てば、
相手を叩き潰そうとするエネルギーを向けるのに恰好の機会にできるからでした。

 

私は「自分が絶対的に正しい、自分は全然悪くない、相手が悪である。だから、私には相手に怒りを向ける権利がある。私が善であり、正義である」という思いを一切崩そうとしなかったのかもしれないと思いました。

 

それはいじめられたからといって正しいのだろうかとふと疑問が浮かびました。

 

実はこういう性格的傾向が自分にあるということは以前から指摘されてきたことでした。

 

大学生の時、卒論のゼミの教授に、「あなたはこうあるべき、~でなければならないという固定観念が強くあるね。もっといろんな人のいろんな考えを知っていく方がいいよ。」というようなニュアンスのことを言われたことがありました。

 

その時、少しはっとさせられるような何かを感じました。

 

それは、私の人生の課題というか、偏屈、凝り固まった思考に陥りがちであるということを示唆していて、それを改めるためにいじめという体験も自ら人生に招き入れたようにも思えました。

 

一度自分が正義であるという立場に立つと、意地でもそれを手放そうとせず、
他者に怒りや復讐心を燃やし続けていたのかもしれないと思いました。

 

それはとてもエゴイスティックな考え方だと思いました。
そして、見方が一方的で狭過ぎると思いました。

 

いじめや差別という体験を通して、
私は自分自身の思考の癖を改める機会を与えられていたのかもしれないと思いました。

 

そういった癖を改め、心の中を少しずつ愛で満たしていった結果、
目に見える世界にも自然と愛が溢れているように感じられるようになっていきました。

 

まさに「心の中の愛と世界の愛は比例している」という言葉通りだったのでした。

自分はかつて人をいじめていた

私はいじめや差別にあうそれ以前に、他者にひどく悪口を言う癖がありました。

 

今思い出しても申し訳なく思いますが、小学校低学年の頃、私は友達だった子の悪口を交換ノートに書いたり、他の同級生たちがいじめていた子を一緒になって言葉で傷つけていました。

 

当時の自分はどうしてそんなことをしていたのかよく覚えておらず、悪いことだという認識がなかったのだろうと思いました。また、それを行うことに対して何の疑問も持っていませんでした。

 

善悪の判断が介入することなく当然のこと、当たり前のこととして日常化していました。

 

でも、それから数年後、今度は自分が反対にいじめられる側にまわり、
それがどれほど辛く悲しいことか思い知らされることになりました。

 

その頃のことを今でもはっきりと覚えているのですが、
私は小学校から一人帰る道の途中で、
「自分はもう悪口を言って人を傷つけないようにしよう」と固く心に誓いました。

 

今そのことを思い出しながら、私は奇しくも一つの人生においていじめる側もいじめられる側も両方経験していたんだとふと思いました。

 

また、自分がいじめられる側にまわった瞬間、心の隅で「これがこっち側の気持ちなんだ」とどこか冷静にその状況の変化を眺めている自分もいました。

 

まさに今自分の立場が逆転したという瞬間が、あまりにもはっきりとわかりやすかったため、心の中では興味深いという意味で「こんなことがあるんだ!」とどこか驚いている自分がいました。

 

また、いじめる側からいじめられる側になるという順番で経験したことで、どこか心の中で救われていた部分もあったように思えました。

 

なぜなら、人がどんな風にいじめられるのかを体験する時、まず自分自身が他者をいじめていた時に使った方法を使われる可能性があるということはわかったからでした。

 

その他にも、小学生の頃、それまでに同級生がいじめられている様子も見てきていましたので、いじめられるということがどういうことをされることなのかを知っていました。

 

そのことで幸いなことに、これから自分の身に起こるであろうことはだいたい予測がつきました。

 

どれも案の定というかたちで、「やっぱりこうなるか」「昔あの子がされていたことを今は私がされているな」と自分のことを客観的に見ていました。

 

また、他者がいじめられている様子を見てきたことで、あの子はいじめられている時こういう気持ちだったんだと思いを重ねることもできました。

 

それと同時に、その気持ちを味わったのは自分だけではないんだという安心感と、いじめられていた子に対して変な仲間意識のような感情も芽生えたりしました。

 

この時、人生において自分のした行為を他者にされるとこんな気持ちになるんだということを初めて実体験を通して理解しました。

 

そして、その立場の逆転がすぐに自分の身に起きたことはある意味で幸せなことだったとも思いました。

 

もし私が差別されたり、いじめられるという経験をしてこなかったら、きっと小学校低学年のあの頃のまま、私は人の悪口を平気で言い続けていたかもしれないと思えたからでした。

 

当然の報いとも言えるし、心を改めるきっかけを与えてもらったとも言えるので、
どちらにしても必要なことだったのだろうと思いました。

 

自分がもし今生の死を前にして自分自身の人生を振り返った時、「いじめる側、いじめられる側、両方経験することができたことはある意味でお得だったな」と思うような気もしました。

 

見方によっては、人生で両方を味わうことによって、多くの気づきや発見、感情を体験することができたので、それはある意味で豊かだった、幸運だったとも捉えられる気がしたからでした。

 

そう考えると改めて人生への感謝の念が湧いてきました。

 

また、いじめや差別を乗り越え、私が今を幸せに生きる姿を見せることは、過去にそのことに関わった人たちを遠いところで救うことに繋がるとも思いました。

 

それは、私をいじめた人たちが罪悪感、罪の意識を抱く機会を消すことに繋がると思えたからでした。

 

昔の私自身もそうでしたが、他者をいじめてしまった人たちの多くは、幼さ故、無知が故に、不本意に人を傷つけてしまったこともあると思いました。

 

また、その場だけの感情や、周囲につられて一緒になって加担してしまったということもあるように思えました。

 

そういった人たちが時を重ねるにつれて、自分が過去にしてしまったことに気づき、
後悔や罪悪感に苦しむことがあると思えた時、
いじめや差別を乗り越え幸せに生きる姿を見せることは、その罪悪感や自責の念を和らげる助けになれるように思えました。

 

結局のところ、そのように他者を許すとき、結果的に過去の自分自身をも一緒に許すことに繋がっているのだということに気づきました。

 

そのことからもすべては丸く収まるようにできている、
人生において不必要な出来事など何一つないのだということを改めて感じました。

過去をどう捉えるか?

私は20歳くらいの頃、精神病が悪化し人生のドン底とも思える状態に陥っていたある日、突如一時的に悟りの境地に達するという神秘体験を経験しました。

 

その際、自分の過去世と思われるものが走馬燈のように見えるという体験もしました。

 

それは、ほんの数秒間に膨大な量の過去世のシーンを頭の中で
超高速の映像として一気に見せられるような体験でした。

 

当然、情報量が多過ぎるため、それらすべてを捉えることはできず、
断片的に自分の過去世を知ることになりました。

 

その中の一つに戦士として生きた転生があり、
その過去世において自分は戦争で多くの人を殺していたという事実を知りました。

 

 そのことがまた後の人生において深い影を落としました。

 

なぜなら、その時に多くの人を殺した罪によって、
今世で私はいじめや差別を体験し苦しむという人生を歩むことになったのだと解釈してしまったからでした。

 

実際、なぜこんなにも私は自ら虐げて生きてしまったのか、
もっと早くに人生を好転させても良かったのに、
状況をより一層こじらせて、
苦しみの渦中に長年身を置いていたのかという原因の背景には、
どこか私は過去世に自分が行った行為に対する深い後悔、
罪の意識を引きずっていたからだということにも気づきました。

 

だから、今世で幸せになることに対してどこか罪悪感を感じたり、
自己犠牲によって償わなければならないといった行動を無意識に取るようになっていたということも理解できました。

 

でも、過去世の罪を今世で償うことなどできるのか?
という疑問が沸き起こりました。

 

実際、今世でいくら自分を虐げても、犠牲的に生きても、
その罪が許されたと感じられることはなかったからでした。

 

むしろ自分を不幸にすることで、
周囲にその負の影響を与えているということに気づいた時、
過去世の罪を背負って生きることの方がかえって罪のようにも思えてきました。

 

そして、最終的にその苦しみから
抜け出すヒントを見つけ出すことができました。

 

それは時間の概念を知ったこときっかけでした。

 

「時間という概念は人間の思考が創り出した幻想であって、
本当は毎瞬毎瞬、今この瞬間というものが新しく生み出され、創造されている。
過去も未来も本当は存在しない、思考の中だけに存在する。」

 

つまり、私がそれを過去に起きたものだと考えた瞬間に、
それが過去に起きたことだと認識され、理解されるということでした。

 

例えば、同じ場にいて同じ体験をしていても、その人によって覚えている記憶が異なったり、自分に都合よい内容に過去を脚色して記憶していたりすることあるということからもそのことがわかります。

 

過去の出来事というのは、
実は自分が覚えていると信じて、選び取っている場面のことだったのでした。

 

そう考えると、
私は自分の過去世も自ら選び取って今世と関連付けているということに気づきました。

 

人間は平均して約300回以上の転生を繰り返しているとも言われています。

 

その膨大な転生の中から、戦士として生きた過去世のみを選び取って、
自分の今世の出来事と因果関係をつけようとしていたのは、
自分自身であったということに気づきました。

 

よく考えてみると、私の転生の中には戦士として人の命を奪った人生もありましたが、反対に人の命をを助けていた人生もありました。

 

それなのに、私はその戦士として生きた転生ばかりにフォーカスを当て、
そのせいで今世でいじめや差別という苦しみを味わう人生を生きることになったという、一見辻褄の合うようなストーリーを自ら生み出したということに気づきました。

 

これもまた私自身が現実を創造していることの証でした。

 

そうやって、過去世の罪と関連付ければ、私が苦しむ現実を生きることを正当なものとできる、強化できるからでした。

 

でも、これは実はエゴの罠だと後に気づきました。

 

それに気づいた時、過去世と今世を独立したものとして
認知するように変えました。

 

さらに私が罪を罪だと認識した瞬間、それが罪としての効力を持ち、
私に自責の念や後悔、自己犠牲的な行動を起こさせるということにも気づき、
それも意識的に手離すようにしました。

 

時間は存在せず、今この瞬間しかないのなら、
過去世に縛られた生き方ではなく、
全く新しい生き方を今この瞬間に創造してもよいと思えたからでした。

 

そのことによって、自分自身の罪を解放し、
これまでとは違う人生のパターンを生きられるようになりました。

 

私が過去世の罪を自ら手離すことができた時、
本当の意味で人生を生きられるようになったと感じられました。

 

現実に何か不幸な体験があった時、
人によっては、過去世の因縁や、カルマ、先祖が何か悪いことをしていたからなど、
自分の力ではどうしようもない様々な外部の原因によって、
それが引き起こされていると考えることがあります。

 

でも、私は自分自身の経験から、実はそれも自分自身がそこに力を与えている、
そう考えることでその負の影響がそこにあるかのように強化し、自ら体験させているに過ぎないのだと思うようになりました。

 

だから、そのエゴの罠にハマって、ネガティブな過去から繋がる「今」を生きるのではなく、常に新しく生まれている「今」にフォーカスを当て、
そこに全く新しい意味や価値を与えながら、自分自身を最大限に幸せに生かす選択をしていくことが何よりも大切なのだということを思いました。

 

過去にどんな辛い経験があっても、それを引きずって今を生きる必要はないのです。

 

「昔、私はいじめられた。だから、その傷を背負って苦しみながら生きる。」
という選択肢もありますが、
「昔、私はいじめられた。でも、今を幸せに生きる。」
という選択肢もありなのです。

 

どんな時もこの現実に最も影響を与えているのは、
自分が何を信じ、どう考え行動しているのかということであって、
そのことを決して見失ってはいけないのだということを改めて思いました。

おすすめしたい本について

私がいじめや差別の後遺症を克服する上で
助けとなってくれた本はいくつもありますが、
その中から今回2冊をご紹介させていただきます。


1冊目はこちらです。↓

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 

実は数か月前にこの本を読みました。


数年前に一時期ドラマ化されたりもし、世間でも話題となった本ですが、
その当時はこの本を私は読んでいませんでした。

 

そして、これを最近になって読んだこともまた最適なタイミングだったと思いました。


この本に書かれてあることは、私がいじめを乗り越える過程で気づいたり、
学んで得たことと多くの点で符号していたからでした。

 

そのことからも、やはり物事の真理、極地には何か共通にした概念、思想のようなものが存在しているということもわかりました。

 

そこに辿りつく過程は、それぞれの人生のストーリーによって異なりますが、行きつく先は同じだということがよくわかりました。

 

もしかすると、私のブログよりもこの本を読んだ方が
より理解しやすいかもしれませんので、気になりましたら、
是非この本を一度お読みいただくことをおすすめします。

 

この本は過去にいじめや差別に遭い、現在人間関係で悩む人や精神病に苦しむ人の心に、一筋の光を差し込んでくれる素晴らしい良書だと思います。

 

この本に書かれていることの多くは、表現は違っても、
私が伝えたいと思っていることと類似しています。

 

私自身もこの本を読むことで、
これまでの経験に対する理解がさらに深まり、新たな視点も得られました。

 

どんな時も学びに終わりなく、
常に自分は癒され、進化し続ける存在なんだということにも気づかされました。

 

そして、私もこの本を通じて「勇気」を持って生きるようにと
また後押しされたような気持ちになりました。

 

2冊目はこちらです。↓

 

恋愛レッスン-永遠の絆のつくりかた

恋愛レッスン-永遠の絆のつくりかた

 

 

過去にいじめや差別にあった女性であっても、その経験を乗り越えて、
素晴らしいパートナーと出会って幸せになるためのヒントが
この本の中には沢山ちりばめられています。

 

私は同じ著者の他の著作も読みましたが、どれも大変素晴らしく、本当に多くの女性が幸せに生きて欲しいという著者の愛と願いが込められているのが伝わってきました。

 

過去にどんな辛く悲しい経験があったとしても、それらをすべて優しく包み込み、
あなたを幸せにしたいと思ってくれるパートナーが必ずいます。

 

そんな幸せな体験をすべての女性ができるということを
この本を通して私も改めて気づかせていただきました。

 

特に女性の方に読んでいただきたい本としておすすめします。

新しい価値観を与える その4

13.買い物の際、不良品、傷んでる食材を無意識に選んでいる

→自分自身に対する自己イメージが低いため、「9.良いもの程受け取れない、他の人に譲ってしまう」で紹介したように、意識的に良いものを受け取らないばかりか、無意識にも良いものを選べないという現象が起きていました。

 

その時、自分が認識している自分像に合ったものが、自然と引き寄せられていたため、その低い自己イメージを強化するために、運のないような出来事が頻発するという結果になっていました。

 

例えば、普段の買い物の際に選んでいる商品や食材が不良であったり、実は質の悪いものに高い金額を払っていたりという不遇なことがよく起こっていました。

 

でも、段々と自己肯定感が高まるにつれて、そういったものを自分に与えることに違和感を覚えるようになってきました。


「私にはもっと良質な商品や、栄養のある良い食材を与えたい。」という思いが高まっていき、意識的にそのようなものを選ぶようになり、自然と自分の元にやってくるものも上質なものに変わっていきました。

 

また、安い物を沢山持つというよりも、質の高いものを少なく持って大事に長く使うというあり方に変わっていきました。

 

欲しくないものは受け取らない、自分の身体にとって良くないものは食べないというように、自分に対する敬意のような感情も芽生え、自分自身を粗末に扱うこともやめていきました。

 

さらに、そうなってきた時、自然とラッキーと思えるような出来事も頻発するようになっていました。
懸賞に当選するようになったり、欲しいものが欲しいベストなタイミングで目の前に現れたり、困った時に必ず何かしら救われるような出来事や人に出会えるなどという自己に対する高いイメージに合わせた現実を生きられるようになっていました。

 

気づけば、自分を大事に思う気持ちが、自然といつも快適に過ごせる現実を創造することに繋がっていました。

 

14.いつもネガティブな未来を想像してしまい、何事にもチャレンジできない
→何か初めてのことに挑戦する時に限らず、日常のちょっとしたことに対しても、後ろ向き、消極的な態度を取り続けていました。

 

「きっと~になるからやらない方がいい。」
「最悪の事態を想定しておかないと怖い。」
「やっても意味がない。」
「自分にできる訳がない。」
「どうせ~になるから、これ以上傷つかないためにやらない。」

 

などと考え、できない理由、やらないでいい理由ばかりを挙げ連ねて、
結局何も行動できず、変化のない毎日を過ごす結果となっていました。

 

さらに、実際そういった失敗と思える体験が重なり、さらに意欲を無くしていくというネガティブなスパイラルにもハマっていました。

 

でも、それを続け行きつくところまでいくと、自分の可能性を狭めることになっていたため、人生に面白味や楽しみが感じられなくなっていきました。


また、その状態に耐え続けることに限界を感じ、また人生の出来事によって、何かに挑戦せざる得ない状況に追い込まれたため、初めてそれを乗り越えることができました。

 

そして、一度でも何か成功体験を積むと、自分がネガティブになって行動を起こすことをためらう理由にしていた考えや想像が、すべて自分が作り上げた幻想であったということにも気づきました。

 

最終的に、自分で自分がそのように仕向けることで、行動しない理由付けにしていたんだということを思いました。

 

自分でネガティブなことを想像し、結果その通りの現実を体験して苦しむという姿が、まるで一人芝居をしているようでひどく滑稽に思えました。

 

「なぜ自分はそんな風にして自分を苦しめて生きているのか?」ということに疑問を抱いた瞬間、そんなことをしているのが馬鹿らしく思えました。そして、ポジティブなことを想像をし、その通りの結果を手にしようという真逆の考え方に変わっていきました。

 

やがて、新しいことに挑戦したりすることに対して、「楽しそう!」「面白そう!」「今までにない幸せが待っていそう!」と思えるようになり、その意識で取り組むので、当然そういう出来事が起こったり、そう感じられることが増え、気づけばポジティブなスパイラルの中に入っていました。

 

15.見栄っ張りな性格で、プライドだけが人一倍が高かった
→見栄っ張りな性格でプライドだけは高かったので、誇大妄想をしたり、地に足のついてない理想ばかりを追い求めていました。

 

身近に手の届く範囲にあることは、自分には簡単過ぎて嫌だとやること拒否して、どこか自分を過信し傲慢にもなっていました。

 

他者から見て評価が高まると思えること、他者の受けが良いと思えることばかりをやろうとしていて、大きな夢を周囲に語るのですが、そのために努力は一切していませんでした。

 

とりあえず、自分はやればできるけれどやらないだけだということを言い訳にして、自分の実力や現実を直視しようとしませんでした。

 

その結果、進歩がなく、現状維持を貫くという生き方になっていました。

 

さらに、自分の自己イメージを高めてくれるような人と付き合いたいと思ったり、何か優れた点を持っている物や人が周囲に存在すると、それだけで自分の価値が高まったかのように錯覚していました。

 

自分を磨くことを怠り、周囲に価値がありそうなものを上っ面だけ集め、取り繕っているような状態になっていました。

 

ある時、そんな自分の姿を客観的に見られるようになり、とても恥ずかしい生き方だと気づき、それをやめるようになりました。

 

自分の傲慢さ、過信を改めて、それがたとえ誰の目にも触れず評価されなくても、自分が今できることをまず精一杯やるという意識に変わり、成功の階段を少しずつ登っていけるようになりました。


16.自己犠牲的な生き方に価値を見出す
→自己犠牲的な生き方をし続けてきた結果、自分の心身を苦しめ、そのことで周囲にも負の影響を与えていると気づいた時、何よりもまず自分自身を満たすことを最優先にしようという生き方に変わっていきました。


「自分がまず幸せになることが他者の幸せにも貢献している」という考え方を持つようになり、意識的に自分を大切にするようにしました。

 

すると、一見エゴイスティックな生き方になりそうに思っていましたが、私が楽しく幸せな時間を多く過ごすようになると、周囲もそれを真似して幸せになっていくという現象が起き始めました。

 

例えば、何か新しい趣味を始めたり、普段やらなかったことをやっていくと、その姿に影響されて周囲の人も同じように新しいことを始めて、自分の可能性を広げ人生が豊かになっていきました。


まるで、自分の放った何か良いエネルギーが波紋のように広がっているかのようで、その私のポジティブな気持ちが伝播しているようにも感じられました。

 

自分が自己犠牲的な生き方をしないようになると、他者も私のために犠牲になろうとすることをやめ、本来の姿、生きやすい生き方を選択するようになっていきました。

 

私が私自身を大切することは、他者を自由にし幸せにすることに繋がっているのだということを実感しました。

 

それ以降、もう二度と自分を虐げたり、犠牲にしたりする生き方は選ばないようになっていました。

新しい価値観を与える その3

9.良いもの程受け取れない、他の人に譲ってしまう
→私はいつも何でも遠慮していて、他者に譲ることが人としての優しさ、理想のあり方だと思っていました。
だから、それが自分にとって良いでものであればある程、自分ばかり得をするのは悪いという気がして、それを受け取ることができませんでした。

 

でも、そういうことを繰り返していた時、あることに気づきました。
それは、私が何かを譲ったことで、他者が必ずしも幸せになっていないということでした。


自分が本来受け取るべきものを受け取らないでいるために、
全体に不調和、マイナスの出来事が生まれているということに気づき始めました。

 

むしろ私が他者のためと思って何かを譲ったことによって、
周囲を不幸にしていることがあるのだということも知り、私自身も驚きました。

 

誰かが私のためにと思って用意したり、
助けようと声をかけてくれたりしていたのに、
いつも「結構です!」と突き返すような言動を繰り返していた時、
逆に相手を傷つけていたのかもしれないとも思いました。

 

私はそれらを受け取ることが申し訳なくて、
どこか厚意に甘えることが悪い気がして断っていたつもりでしたが、
それが必ずしも良いことではないということが段々とわかるようになってきました。

 

最終的に、受け取り上手になることを覚え始め、受け取ることが他者のためにもなるのだと思えるようになっていきました。

 

例えば、何か私ができないことはあって、それを他者に頼めば、相手は自分を頼ってくれたことを喜び、相手の助けになれたことで自分の能力にさらに自信もつけられます。

 

また、他者が何か私を喜ばせようと思ってしたことを素直に「ありがとう」と言って受け取れば、断られるよりずっと嬉しいだろうということにも気づきました。

 

自分が受け取るべきものは自分が受け取らないとかえって周りを不幸にすることがある、受け取ることは甘えや弱さ、傲慢さでないということを受け入れられるようになった時、その行動の癖が抜けていました。

 

10.待遇の悪い環境でもそれに甘んじてしまう
→自己評価が極端に低かったため、不便で窮屈で過酷な環境であっても、これが自分の身にあっていると思い、そこからなかなか抜け出ようと思いませんでした。

 

そのことで身体や心が限界に達した時、初めてその環境が自分に合っていないのかもしれないということに気づき、そのためにやむなくその環境から出るための行動を取るということを繰り返していました。

 

自分が望む環境が何なのか、初めからそんなものは自分に与えられるはずがないと思い込んでいたため、そのようなことを考えようともしませんでした。

 

でも、初めての転職の際に、自分は本当はどうありたいのか?どういう仕事内容や環境、給料などを求めているのかということを、もう一度自分に問い直す機会が生まれました。

 

その時、自分が主体的になって自分の求めるものを得ようという積極的な行動を取り始めるようになりました。

  

そして、その通りのものを手にするに従って、


「欲しいと思えば得られるんだ!」
「じゃあ、次はこれも手にしてみようかな?」


と、次から次へとどんどん自分の欲しいものを手にできるようになっていきました。

 

たまに、自分が欲しいと思って手にしてみたけれど、実際手にしてみたら自分に合っていないということがわかるということもあり、そういった失敗と思えることも、より自分が欲しいものを手にするきっかけになってくれるとわかりました。

 

そして、自己評価が高まってくると妥協するということも減ってきました。それまでの自分なら、「これくらいで満足しておこう!」「これくらいでも妥当だ」と判断し、本当はもっと多くのもの、良いものを手にできる可能性があるのにそれをすぐに諦めていました。

 

でも、「私にはこれでは足りない」「求めていたものではない」というのがやってきた時、それで満足せずに、本当に心から求めるものが得られるまでチャレンジし続けるようになりました。

 

それがさらに自分の自己評価を高め、結果としてさらに上の望むものを手にできるというスパラルを生むようになっていました。

 

自分自身の自己評価を高く持つ、そして高める行動を取るということが、その状況から抜け出すために大切なのだということに気づきました。


11.自分の好きなことがわからなくなる
→上記の「10.待遇の悪い環境でもそれに甘んじてしまう」と重なることですが、自分自身が何が好きで、何を求めているのかということが全然わかっていませんでした。

 

だから、最初の頃はまずその時に思いつくものを手にしてみることから始めました。

 

そして、何かを手にしてみて、初めて「これじゃなかった!」「もっとこれよりもあっちが好きだったんだ!」ということに気づくという場面が増えていきました。

 

でも、それは単なる不遇、失敗、間違いではなく、本当に望むものに近づくための一つのきっかけとなってくれました。

 

「もっとこういうものが好き」ということがわかったので、次はそれを求めて行動ができたからでした。

 

何でもいいのでまず何かしら今の時点で自分が好きなこと、求めるものを手にできるように行動してみることが前進に繋がるということがわかりました。

 

また、当時の私は、自分の好きなことがわかっていないのにも関わらず、「あれは違う」「これは合わない」と何か固定観念による判断基準で物事を選んでいて、その可能性を広げるということも拒否し、やる前から突き返す癖がありました。

 

本当は自分が「嫌だ」「合わない」と思っているものの中に、自分が知らなかった好きなものが隠れているのかもしれないのに、そんなことには考えが及びませんでした。
その結果、狭い価値観、世界の中で喜びや幸せも限定的、マンネリ化したものを受け取り続け、それに満足して強がって生きていました。

 

でも、そんなことを繰り返して生きていたら、段々と人生に閉塞感が増していきました。そして、「もう限界!」となった時に、自分がこれまで絶対やらないと思っていたことをやってみたら、ものすごく人生が開けるという体験がありました。

 

「何でこれまで自分はこんなにも頑なに拒否していたのだろう?」「もっと早くやっておけば良かった!」と思えるくらいの、大きな感動がありました。

 

その後は、「とりあえず何でもやれることはやってみよう!」と行動したり、「やっぱり無理かな?」とすぐに諦めず、「もうちょっと長く続けてみたら変化があるかも!」と自分の判断を下すことをやめていきました。

 

その結果、自分の才能や可能性がこんなにも広いということを知ったり、新しい経験を通して、それまでなかった幸せや喜びを体験できるようになりました。

 

その頃にはより一層物事を柔軟に考え、受け入れられる自分になっていました。

 

12.本当はやりたいと思っていることも人の目を気にしてできない
→初めてこれまでやったことがないことに取り組む時、他者の目が非常に気になりました。

 

「こんなことをしたら恥ずかしくないか?」
「馬鹿にされるのではないか?」
「調子に乗っていると思われて、非難されるのでないか?」
「反対されるのではないか?」

 

などといろんなネガティブなことをが想像されて身動きが取れないという状態がしばらく続いていました。

 

でも、人生の流れによって、その状態を「もういい加減やめたい!」と心から強く思える出来事があり、さらにそのやりたいことをやろうとするエネルギーが他者の目を跳ね除けるくらいの勢いがあったおかげで、一つ殻を打ち破ることができました。

 

すると、他者は自分が想像していたネガティブな反応を示さず、全く自分のことなど気にもとめていない様子で、何ともないということに気づきました。
すべては現実にない自分の妄想の中で、それを怖れて自分で自分を縛りつけていたということに気づきました。

 

その出来事が突破口となり、どんどんこれまで他者の目を気にしてできなかったことを、小さいことも含めていろいろやるようになっていきました。

 

その成功体験が重なるにつれて、「誰が何と言おうと、私がやると決めたらやる!」と自分自身を応援できる自分になっていました。

 

気づけば、他者の目を意識して窮屈に自分を生かすのをやめていました。

 

最終的に自尊心、自己肯定感も高まり、自由に人生を生きられるようになっていました。

 

次回「新しい価値観を与える その4」に続きます。