いじめを乗り越えて人生を幸せに生きるための方法

いじめ体験、その後遺症をどう乗り越えてきたか、人生を幸せに生き直すためのコツを紹介しています。

嬉しい接し方

中学生の時、私が大好きだった数学の先生がいました。

 

私の目からはその先生が、私に対して嫌悪感や可哀想というどちらの感情も抱いていないように見えました。

 

私には普段そのどちらかの感情を向けられることがほとんどだったので、
それ以外の私に対する接し方がある意味でとても新鮮でした。

 

私はその先生を前にすると、不必要な警戒心も抱かなかったし、
反対に気を遣うこともありませんでした。

 

誰かに嫌いだと思われていると感じると、
無意識に防衛本能や警戒心が働き、非常に神経が疲れました。

 

また反対に可哀想だと思われていると、
相手の優しさに対して申し訳ないという気持ちから気を遣い、
またその人に好かれたい、良く思われたいという欲求も芽生えて、
自分が無意識に良い子、良い人を演じなくてはならず、
それもまた非常に窮屈で疲れました。

 

ありのまま、自然体の自分ではいられないという点においては、
どちらもある意味で同じことだったのです。

 

でも、その先生は本心から私に対して先入観を持っていない、どこにでもいる普通の一人の生徒として私と接してくれていると感じられました。

 

そこには言葉では伝えられない、安らぎや安心感、自由、懐の深さと呼べるような何かがありました。

 

その当時私は初めてそのことを感じ、無性に嬉しかったのを覚えています。

 

ある日、その数学の先生の授業に、私が宿題を忘れていったことがありました。

 

前の列の生徒から、順番に宿題の答えを聞かれていきましたが、
私以外にも宿題を忘れていた男子生徒がいました。

 

そして、ある男子生徒が「忘れました。」と正直に答えると、
「ばかもん!」と冗談混じりに言われ、その先生の軽いげんこつがその生徒の頭上に落ちました。

 

その時、クラスにいた生徒たちの間で笑いがこぼれるような
そんな微笑ましい雰囲気でした。

 

そして、私もひやひやしながらその様子を見ていて、
とうとう自分の番が回ってきた時、忘れたことを正直に告げると、
同じように「忘れたらいかんだろ。」と言われ、軽いげんこつを落とされました。

 

その時のげんこつは少し痛かったけれど、なぜか愛が感じられました。

 

そして、私にとってはそのことがなぜか心の底から嬉しかったのです。

 

その先生が、男子と女子とで手加減をしていなかったのが伝わってきたことと、
平等に分け隔てなく接していることが感じられたからでした。

 

最初、もしかしたら私は先生からげんこつを受けないのかもしれないと思っていました。

 

自分は他者から気持ち悪い、近くに寄るのも私の物に触れるのさえも嫌だと思われていることをすでに知っていたので、きっと先生も私にあまり関わりたくないと思って言葉だけで注意して終わりにするのだろうなと思っていたからでした。

 

もしくは、この子はこんな容姿できっと他者からいじめられているだろうから、
げんこつをするのは可哀想だからやめておこうと思われるだろうと予想していました。

 

でも、その私の予想に反して、私は普通にみんなと同じようにげんこつを落とされました。

 

そんな些細なことと思われるかもしれませんが、その瞬間、私は先生に怒られたにも関わらず心の中は嬉しくてにこにこ笑っていたのでした。

 

その経験から、私は一つの考えを持つようになりました。

 

それは、その人の性格や状況によっても感じ方は変わるのかもしれませんが、
孔子論語で言われる『中庸』という言葉や、
『中立』『ゼロ』という言葉で表現される心の在り方が、
苦境における人の心に寄り添う時、
最も望ましいあり方なのかもしれないということでした。

 

どちらにも傾いていない真ん中という意味です。

 

本当の優しさ、愛とは、ありのままを、先入観を持たずに、真っ直ぐにその人の中心を見つめ接するということの中にあるのではないか?

 

私はその経験を通して、そのことを知るきっかけを得たのでした。