いじめを乗り越えて人生を幸せに生きるための方法

いじめ体験、その後遺症をどう乗り越えてきたか、人生を幸せに生き直すためのコツを紹介しています。

自分を責めた

私は心の中では怒りを持ちながら、
それを表現することは絶対に許されないという思いとの間で
その葛藤に悩まされ続けていました。

 

やがて、他者に向けられていた怒りのエネルギーが
「自責の念」という形で自分を責める気持ちへと変わっていきました。

 

それが段々と心と身体の両方を蝕んでいきました。


例えば、私の中にあった「自責の念」がどんなものだったかというと、

 

・「いじめられる人生を歩むのは、過去に自分の犯した過ちによる罰である」
・「私が生きていること自体が悪なのだから当然の報いだ」
・「苦しい思いをすることが自分が気づかずにこれまで犯してきた罪の償いになる」
・「地球は本当は刑務所のような場所で、私は生まれつきの罪人であり、苦しみの中で生きることがその罪を贖うことに繋がる」

 

などというものでした。

 

それが私の頭の中を支配するようになっていきました。

 

だから、どんな苦しい時も、もしかして私が今いじめられるのは、
自分でも知らないところで生まれた罪に対する罰であると思っていました。

 

そして、これを受ければ償いになると思い、
この境遇を甘んじて受け入れようとさえ思いました。


さらに、それがどんどんエスカレートしていって、
今度は自分は幸せになってはいけいない存在なんだ
とまで思い込むようになっていきました。

 

他者のおこぼれに与るくらいがちょうど良いなどと考え、
どんどん自分を卑下するようになっていきました。

 

世の中の底辺で他者に忌み嫌われながら這うように生きている
狂った化け物のように自分の存在が思えました。

 

やがて、私はこんなことも思うようになりました。

 

それまで私を差別したり、いじめる人たちと接してきた中で、
私が存在していることで、
私を除く他の人たちが妙に結束しているように見えました。

 

私という存在を集中的に差別、いじめという形で攻撃することによって、
普段そんなに仲が良さそうに思えない人たちも、
その時ばかりは仲間意識が芽生えて
やけに仲良くしているように私の目には映りました。

 

だから、その時私は自分が嫌われ役を買うことで、
他の人たちを仲良くさせる助けになっているのかもしれないという
とんでもない理屈まで考えるようになりました。

 

自分がそのための犠牲者、生贄みたいになっていることに
少しの価値を見い出していました。

 

そうでもしないと、自分の存在価値が感じられなかったからでした。
それを唯一の心の拠り所として自分を慰めていました。

 

「本当は死んでもよい人間である私が、
この世界で生き続けさせてもらえているだけでも感謝すべきである」と思ったり、
「この世界で自分が幸せになるなんてことは決して許されないのだ」
という気持ちでいました。

 

そうやって、いじめる人だけでなく、
自分自身もまた自分を虐げていました。

 

でも、その後、そうやって自分を責めて犠牲的に生きることは
結局何も生まないということがわかりました。

 

私がその当時自分を責めて苦しんでいたのは、
他者を責めている自分になるよりかは、
自分自身を責めている自分の方がまだましだと思ったからでした。

 

ある意味で自爆しているような状態ではありましたが、
他者に怒りのエネルギーをぶつけてしまうのなら、
自分の身に降りかかって少しでも処理できるのならそれでよいと思っていました。

 

そう思ったのは、この怒りが生まれた原因が
自分の播いた種であると心の片隅では知っていたからでした。


でも結果として、怒りを他者へ向けず、
自分に向けたところで何の解決にもなりませんでした。

 

結局、自分を犠牲にすることによって、
この世で〝とても不幸な私〟という存在を生み出すことに
加担していただけなんだと気づきました。

 

私は最終的に、他者に怒りをぶつけるのも苦しい、
自分を責めても苦しい、
そのどちらにも自分を本当の意味で救う道はないのだとわかりました。