いじめを乗り越えて人生を幸せに生きるための方法

いじめ体験、その後遺症をどう乗り越えてきたか、人生を幸せに生き直すためのコツを紹介しています。

どんな人にも根本的な弱さがある

ある時、いじめる人も結局自分と同じ『人間』なんだということを思いました。

 

それは私と同じように両親がいて、赤ん坊として誕生し、育てられて、
生きるために日々呼吸をし、ご飯を食べ、排泄をし、眠る、
そんな当たり前のことを毎日繰り返して生きているんだと思いました。

 

私はよく映画にある戦争や戦闘のシーンで、
ご飯を食べている最中や、寝ていたり、トイレに入っている兵士が、
突然の奇襲によって襲われる場面を見る度に、
「これは卑怯だ。可哀想過ぎる。」と思う気持ちが起こりました。

 

そして、人間という生き物が戦闘することに特化して生まれてきた存在ではない
という現実をあからさまに突き付けられた感じもしました。

 

戦いの合間にも、食べ物を食べないと自分の命を保てないし、
当然、排泄や睡眠といった生理的な行為も絶対に必要とすると思いました。

 

もっと言えば、常に酸素がなければ呼吸すらできないとも思いました。

 

そんなことあたり前と思うかもしれないけれど、
それがある意味で人間の限界というか、悲しい性(さが)のようにも思えました。

 

誰かをいじめて強そうに振る舞っている人も、
「あなたは結局食べ物や酸素がなかったら生きていけないんだよね。」と
その最大の弱点が決して消えることがないと思った瞬間、
どんな人を見ても哀れみを抱くようになりました。

 

どんな地位や肩書きがあっても、
どんな肉体的な強さや頭の良さがあっても、
結局私と同じ人間であることには変わりがないと思いました。

 

もし植物が酸素を出すことやめてしまったら、
何かの理由で食べ物が手に入らなくなってしまったら、
当然その人たちも私と同じように死んでしまう存在なのだと思いました。

 

そして、人間は根本的に弱い生き物なんだという気がしました。

 

そういう生理的な行為を必要としないロボットみたいな存在や
超人がいれば話は別ですが、
人間として生まれた以上、そこには絶対に逆らえないだろうと思いました。

 

そのことを思う度に、私の中でいじめる人を見る見方が変化しました。

 

いじめる人は自分が強いと思っているようだけれど、
生存という点においては
私と同じで絶対太刀打ちすることのできない根本的な弱さを持っていると思いました。

 

つまり、その部分においては、
いじめる人もいじめられる人も平等という気がしました。

 

そんなことを考えていたら、
誰かをいじめるという行為が、
そういった生存の上に成り立つ幼稚でちっぽけなもののように感じられました。

 

いじめるという行為でさえ、何かの支え、
つまり酸素や食べ物がなければできない行為なのだと思ったら、
いかにその人たちのしていることが愚かなのかを痛感しました。

 

それを感じた時、
自然とその人たちを恨んだり、憎んだりする気持ちが軽減しました。

 

本当はそういった意味では弱い存在なのに、
一生懸命強がって必死で生きているんだと思えたら、
私が相手に抱く恨みや憎しみというものが、
なんだかお門違いのようにも思えてきました。


結局、同じ人間という種に生まれているという時点で、
超えられない限界、根本的な弱さを
持っていることに変わりはなく、対等であると思いました。

 

当時の私は、そうやっていじめる人たちの見方を意識的に変え、
必要以上に憎しみを抱かないということも行っていました。