いじめを乗り越えて人生を幸せに生きるための方法

いじめ体験、その後遺症をどう乗り越えてきたか、人生を幸せに生き直すためのコツを紹介しています。

自己愛に気づき、自分を愛するとき その2

今、改めて「自己愛とは何か?」ということを考えてみました。

 

いじめや差別の渦中にあって自殺したいと思っていた当時のことを振り返り、
それを実行に移さなくて正解だったと思いました。

 

当時は、苦しみから自分を解放するためなら、自殺であっても許される、それが自分を救う唯一の方法だと思っていました。

 

また、自殺願望は、自己愛のなせる業だとも思っていて、
どこか自殺を心の中で肯定していた自分さえいました。

 

でも、今はそれは自分自身に対する歪んだ愛情の形、
その場限りの狭量な見方による愛の表現だったと思いました。

 

もしあの時私が自殺してこの世を去っていたら、
乗り越えた先で待っていた今のような気づき、考え方、視点を得ることもなかったであろうし、自分の人生を自ら創造していくという楽しみも感じられなかっただろうと思いました。

 

さらに、今このようにブログでその経験を伝えるという未来も当然なかったわけで、
自殺が最も有効で最善の生き方だとは決して言えないと思えました。

 

ただ今このように語れるのは結果論ではありますが、
もし仮に私が自殺していたとしたら、その後の人生の残りで体験できたことをすべて放棄し、それまでに築き上げてきたものを棒に振ることになっていたことは確かだと思いました。

 

今は、「あの時自殺しなくて良かった」という思いだけが残っています。
 

最終的に、自殺は自己愛ではないという考えに至り、
自分を愛するとは一体どういうことなのかをもっと深く考えるようになりました。

 

自分を愛するとは、自己中心的に生きることとも違うし、
他者ばかりを尊重することとも違うように思いました。

 

今もまだ模索中ですが、自己愛が高まるにつれて、
自分の好きなこと、やりたいこと、欲しいものをどんどん現実化、具現化させることに成功するようになっていきました。

 

それが可能になったのは、根底に自分の良いところも悪いところも丸ごとひっくるめて愛すことができるようになっていたからでした。

 

そして、同時に私は自分を最期まで裏切らない、ずっと味方でいてくれる、守ってくれる、信頼していいと思えるようにもなれたからでした。

 

そして、意識している自分と心の奥の自分が手を繋いでいるような、
これまでにない協調関係が徐々に築けようになっていきました。

 

それから私は神様に謝りたいとも思うようになりました。

 

自分は本当は恵まれた環境で生まれ育っていたのに、そこに目を向けず、小さなことをほじくり返してケチをつけるような生き方をしていたことに気づいたからでした。

 

過去の私は、

 

「こんな人生は自分の望みではない」
「自分には全く責任がない」
「自分以外の周囲に原因があるんだ」

 

と思い込み、文句や不満ばかりを言うような生き方をしてきたことを恥ずかしく思うようになりました。

 

神様が自分に苦しみを与えたと決めつけ、
どこか神様を犯人扱いしていた部分もありましたが、
最終的にすべて自分で仕向けたことだったとわかりました。

 

自分の非を神様のせいにして生きてきたことを思うと、
昔の自分はなんて幼稚だったのだろうと思うようになりました。

 

今はそういった部分も含めて自分を丸ごと愛し受け入れ、
その経験を糧に生きていることを誇りにまで思えるようになりました。

 

私は自分の人生を通して、自己愛が人生を好転させる要、起点となっているのだと思っています。