いじめを乗り越えて人生を幸せに生きるための方法

いじめ体験、その後遺症をどう乗り越えてきたか、人生を幸せに生き直すためのコツを紹介しています。

苦しみの果てにあったもの

私は自分の精神が病み、苦しみの渦中にあった時、
この苦しみの先には同じ苦しみが永遠に続くか、
もしくは絶望か、死しかないと思っていました。

 

苦しみというのは直線で、その先は奈落の底へと続く崖になっていると思っていました。

 

でも、実際には私が精神が病んだことがきっかけで、
自分自身の内面を深く追究することになり、
結果として〝目覚め〟〝悟り〟の境地を至ったことは、
それまでの考え方、思い込み、概念を覆すことになりました。

 

その時に気づいたのは、苦しみ、苦難、不幸の果てには幸福があるということでした。

 

それまでは苦しみはただ直線となって続き、その果てでやがてその線がぷっつりと途切れて、最終的に死という形で終わるものだと信じていました。

 

そこには何の救いもなく、死という無残で悲しい結末しかないと思っていました。

 

でも、私が体験した苦しみの果てには、なぜか目覚めに至るという思いもよらない幸福が待ち受けていました。

 

それを知った時、私は苦しみは単なる線ではなくて、幸福と繋がる〝円〟、〝輪〟のようだというイメージが頭に浮かびました。

 

不幸のその先、苦しみの果ては、一周回って幸せになっているのだと気づきました。


つまり、不幸と幸せは隣合わせ、表裏一体となっていると知りました。

 

また、同時に「神様は優しいな。」と思いました。

 

それは、苦しみの果てに無を創らず、再び幸せに戻って来られるように、初めから〝円〟にしておいてくれたと知ったからでした。

 

それは、どこかランナーズハイにも似ていて、極限状態、苦しみが最大限に達した時、何かを突き抜ける感覚があったりするのは、そのことがある種の通過儀礼、関門の役目を担っているからかもしれないとも思いました。

 

その経験でそれまでの固定概念が覆ったことは
私自身にとってその後の人生観を大きく変えるものでした。

 

儒教の始祖である孔子が『論語』という書物の中で、「過ぎたるは及ばざるがごとし」という言葉を残しています。

 

それは何事も多過ぎず、少な過ぎず程々であることがよいという教えですが、私はその言葉をふと思い出しました。

 

不幸も度を過ぎると再び幸せに戻ってはこれますが、幸せもまた度を過ぎれば不幸に繋がるので、やはり中間にあることが一番望ましいのだという意味に思えました。

 

これは私自身の体験が、結果的に目覚めに至ったのでそのように思えるだけなのかもしれませんが、一つの物の見方としては十分あり得ることだと思いました。

 

さらに、もう一つ思ったことは、苦しみを最大限にする前に、真ん中に戻るように軌道修正できていれば、私があんなにも苦しみを味わう必要はなかったのかもしれないということでした。

 

神様は、私が最悪の場合に陥ったときのことも想定して、道を残しておいてくれていましたが、本当はそこに至る前にその原因に気づき、考え方や心のあり方を正す必要性があったのかもしれないという反省も芽生えました。

 

結局、辿りつく境地が同じだったとしても、苦しみの上乗せをしていたのは自分自身だったと思いました。

 

できることならそこまで行かなくてもよかった、私が苦しみの果てに行ったのは、自分の責任、自分に原因があったということも同時に理解できました。

 

きっと私は行けるところまで行かないと納得できない、考え方を改められないという、ある意味で頑固な性格的傾向を持ち合わせていたので、なるようになったというのが正直な結果であったのかもしれないとも思いました。

 

そして、自分の人生は苦しむためにあったと信じてきたけれど、苦しみは一つの道のりであって通過点に過ぎないとも思えるようになりました。

 

何よりそれを苦しみと決めつけているのは自分自身であるということもわかりました。

 

それは、その物事に対しての見方が狭いことも意味していましたし、その出来事の意味、結果がすぐにわからないと嫌だという、心の狭さも関係していたのだと思いました。

 

すぐに白か黒かをつけたがる、正しいか間違いかという判断を下すなどといった傾向がそれまでの私には強かったからでした。

 

しかも、その判断を下すために参考にしていた基準と言えば、
自分の周囲の人たちの固定観念や、
刷り込みによって無意識に取り入れていたもの、
もともと自分に備わっていた古い考え方であったりしました。

 

私の中にあったそういった狭い物の見方を改めるために、
人生に何がもたらされればよかったのかを考えた時、
いじめや差別を経験するということも一つの手段として
十分理にかなっていると思えました。

 

初めはなぜ自分の人生にいじめや差別という体験があるのか、
それがまるで汚点のように感じられて、
心の奥で羞恥心や劣等感を抱くための材料になっていました。

 

でも、今は自分を変えるためには必要だったと、
それを素直に肯定できるようになりました。

 

どんな信念や葛藤、トラウマ、記憶、経験などがあったとしても、
最終的には、神の力、無限の力、純粋な力、無の力、統合の力など、
なんと呼べばよいのかわかりませんが、
人間の根本的、潜在的な部分に宿る、神の源の力によれば、
すべてが回復し、癒される、元に戻る、始まりの時に帰るのだというようなことを思いました。

 

その計り知れない力によって、すべては完結する、丸く収まる、最後はハッピーエンドで終わるのかもしれないと思いました。

 

すべてを無にする力、すべてをまとめる力、純粋無垢な状態に戻す、完全性を取り戻す力が神の力にはあるのかもしれないと思いました。

 

私の精神病でさえも目覚めの状態では、
一時的に全く完治しているかのような状態になれました。

 

病すらも手出しできない、何かとてつもないものが、自分の根幹をなす部分に宿っている、それが神性なのかもしれないという感覚を持つようになりました。

 

苦しみの果てで、私は自分自身の中に宿る神性に気づいたのでした。