いじめを乗り越えて人生を幸せに生きるための方法

いじめ体験、その後遺症をどう乗り越えてきたか、人生を幸せに生き直すためのコツを紹介しています。

心の中の愛と世界の愛は比例している

私は、朝目覚めた時、しばらくの間布団の中で考え事をしていることがあります。
数年前のある日、目が覚めるといろいろなメッセージが頭の中に残っていました。

 

その一つは、「あなたの心の中の愛と、見ている世界の愛は比例している」というようなメッセージでした。

 

私はその言葉が頭に残っているのを知り、昔いじめや差別にあっていた時のことを思い出しました。

 

あの当時の私は愛が足りなかったのかもしれないとふと思いました。


 
まず、この世でいじめられるためには、いじめる人を生み出さなくてはなりません。

 

さらに、いじめる人の姿、行動、性格は、私のこれまでの転生や先祖を含め、すべての繋がりある者の見た人間の姿や、イメージするために必要となる記憶をかき集めて生み出されたものなのだろうと思いました。

 

例を挙げるなら、いつかのテレビの中で登場したいじめっ子の姿を模していたり、映画、本といった物語にとどまらず、先祖や自分の過去世において、実際に出会ってきた意地の悪い人間の行動パターンをそっくりそのまま反映していたのかもしれないと思いました。

 

つまり、今生においていじめる人を初めて知ったわけではないと思いました。

 

それはきっと、いつかどこかで一度目にしていた人物と似ている、その時の記憶の再放送なのだろうと思いました。

 

そして、その記憶を保持しているという点で、私はいじめる人を含んでいる、いじめる人を生み出した張本人ということができるように思いました。


私はそうやって、自分の目に見える周囲の世界にその記憶を再び放送したという意味で、〝創造した〟ということになり、そういう世界しか創造できなかったという点では、私は愛のない人だったと言えるように思いました。

 

愛のない冷たい人にしか焦点を合わせられなかったし、そういう人たちのことを完全な悪だと決めつけ、罰したい、排除したいとさえ思っていたことに気づかされました。

 

それは、本当に愛のない狭いものの見方だったと今は思えます。

 

私は自分のコンプレックスを受け入れられず、
いじめられるという体験を自分で創造しておきながら、
一方でいじめる人の存在を否定していました。

 

誰かをいじめる人なんか生きている価値がない、
人を苦しめて喜んでいる人はいなくてもよい存在なんだと決めつけていました。

 

でも、私には自分の存在だけでなく、
他者の存在を否定できる権利など持ち合わせていないはずだと思いました。

 

一体その善悪の判断、絶対的な悪だと決めつけられる完全な正義とはどこにあるのだろうと思いました。

 

それはひどく個人的なものに由来しているように思いました。

 

例えば、いじめる人も私にとっては憎い存在であったけれど、
その人の母親にとってみれば愛する我が子なのだと思いました。

 

また、いじめる人の友達にとっては、
仲の良い友達、気の合う仲間として
大事にされているのかもしれないと思いました。

 

そうやって考えていくと、いじめる人は私にとっては嫌な存在、罰したい、復讐したいと思わせる存在であったけれど、別の人にとっては、何とも思わない人であったり、反対に愛されていたりするのだということを思いました。


この時、私はもしかして自分は相手に怒りや敵意を向ける口実が欲しかったのではないかと思いました。

 

いじめられるという立場に立てば、
相手を叩き潰そうとするエネルギーを向けるのに恰好の機会にできるからでした。

 

私は「自分が絶対的に正しい、自分は全然悪くない、相手が悪である。だから、私には相手に怒りを向ける権利がある。私が善であり、正義である」という思いを一切崩そうとしなかったのかもしれないと思いました。

 

それはいじめられたからといって正しいのだろうかとふと疑問が浮かびました。

 

実はこういう性格的傾向が自分にあるということは以前から指摘されてきたことでした。

 

大学生の時、卒論のゼミの教授に、「あなたはこうあるべき、~でなければならないという固定観念が強くあるね。もっといろんな人のいろんな考えを知っていく方がいいよ。」というようなニュアンスのことを言われたことがありました。

 

その時、少しはっとさせられるような何かを感じました。

 

それは、私の人生の課題というか、偏屈、凝り固まった思考に陥りがちであるということを示唆していて、それを改めるためにいじめという体験も自ら人生に招き入れたようにも思えました。

 

一度自分が正義であるという立場に立つと、意地でもそれを手放そうとせず、
他者に怒りや復讐心を燃やし続けていたのかもしれないと思いました。

 

それはとてもエゴイスティックな考え方だと思いました。
そして、見方が一方的で狭過ぎると思いました。

 

いじめや差別という体験を通して、
私は自分自身の思考の癖を改める機会を与えられていたのかもしれないと思いました。

 

そういった癖を改め、心の中を少しずつ愛で満たしていった結果、
目に見える世界にも自然と愛が溢れているように感じられるようになっていきました。

 

まさに「心の中の愛と世界の愛は比例している」という言葉通りだったのでした。